2007年11月03日

音楽の「言語性」とは?(133)

何の予備知識も無しにショスタコービチの「交響曲第11番」の第3楽章を聴いて、その「作曲年代」を「ぴたりと当てられる」人は、まずおるまい。
シェーンベルクが死んで5年以上が経ち、ピエール・ブーレーズが「ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)」で脚光を浴びた「以後」に、このような「チャイコフスキーまがいのような音楽」が、世に知られた「高名な作曲家」の手によって書かれるとは、「悪い冗談」というのでなければ、「映画音楽」か、同類の何かという「言い訳」が無ければ、かつての「西側」では、到底許してもらえぬ所だろうが(それは「状況」が変わった現在とて、そうは変わるまい。)、「旧ソ連」では、それが罷り通り、それどころか「レーニン賞」なる「お墨付き」まで付いて「国家保証」されるというのだから、全く恐れ入る。
それでなくとも「調性感」の強いこの「交響曲」の中でも、とりわけこれは「それを壊さないように」書かれており、それは「葬送行進曲」であるこの音楽を裏打ちしてもいるのだが、予想以上に「古いスタイル」と感じられるそれは、前楽章の「やり過ぎ」の反動でもある。
前述通り、この「交響曲」では前半と後半とで「位相」が違っており、「筋書き上」では一貫しているように見えるものの、前半の音楽が余りにも「映像的」であるのに対して、後半部は「描くべき光景」を持たないため「心理描写」にならざるを得ない訳なのだが、これは「傍観的」な前半と、「主観的」な後半、という図式、そして「共感を強いる」という例の「悪癖」を強調する事になる上、「対象が対象」だけに「その度合い」は極めて強くなっている。
しかし、前半と後半を繋ぐ「伏線」は外的な筋書き以外には「きっぱりと欠けて」おり、ただ「革命歌の使用」と一部の素材の「使い回し」だけが「共通要素」とされているのみである。
しかし、その「用法」は第3楽章においては幾分異なっていて、動機的に「分解」されたり、といった今までの扱いと違い、「追悼」のお題目のもとに「有無をも言わせぬもの」として「革命歌」をそのまま用いる、という「体制のお抱え作曲家」と呼ばれるにふさわしい扱いがされる。
その「何の加工も行われぬ直接性」は、まるでこれが「変奏主題」であるかのように思わせるのだが、驚くべき事に、何も起こらず音楽はそのまま続き、さすがにショスタコービチらしい「ひねり」も現れるとは言え、まるでチャイコフスキーか何かの「引用」のように響き続ける。
世に名高いベートーヴェンやヴァーグナー、ブルックナーやマーラーの「葬送音楽」に見られるような、胸を打つ「慰めるような長調」は、ここには無く、短調に支配された音調が、幾分マーラー風でもある中間部に至ってより強くなる。クライマックスでは、前楽章でも散々耳についた自作に基づく「お気に入りの」短二度と同音反復による音形が、またもや思い入れたっぷりに奏されるが、結びと主題の再現が兼ねられた主部の反復は、三部形式の「山」を中途で切らせたまま、何故か「ボリス・ゴドゥノフ」を想起させて、特に昇華さることもない無いまま、フィナーレの第4楽章へと移る。
この「あまりオリジナリティの感じられない」、「引用を羅列したような」出来の良いとは言えぬ「葬送音楽」は、無論「革命歌」という「練られていない」素材、民謡のような「世代のフィルター」や作曲家自前の「美学的フィルター」を通さない素材をそのまま用いたことに、その「出来具合」の原因を求められようが、それにしても、これを「発表する気になる」度胸にも驚かされる。
それとも、これが何かの「擬装」だとでも言うのであろうか。私には、どうしても「そのような要素」は発見出来ず、到底「ある」とも思えないのだが。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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