2007年11月24日

音楽の「言語性」とは?(136)

ショスタコービチの「交響曲第12番」の第1楽章は、見かけ上では「ごく一般的な交響曲の冒頭楽章」の姿形にも見える。殆ど「古典的」と呼べそうな「序奏付きアレグロ・ソナタ」を目指して書かれたような音楽は、「遅いテンポ」(モデラート)という程でも無い序奏の開始部と、「より速いテンポ」(アレグロ)による主部の第一主題が全く同一の素材に基づいており、その序奏自体も主部において再現させられる、という、同じニ短調によるフランクの「交響曲」という名作の第1楽章に倣ったような「フランキストまがい」の造りが見られる。(もっとも、このような手法は彼自身の「第8」とか「第10」でも見られたものだが、いつもの「緩い使い方」とは異なる「直接性」が「古典性」を感じさせるのである。)
そのためか、単に「外形」からこの楽章を見ると、彼の作品としては無駄の無い「良く書けた」もののようにも見えるのだが、「失当」と思われるのは、「革命のペトログラード」という物々しい題が付けられた音楽に期待されるべき内容と、このような「整った形式」が相容れないものであることであって(何の「事前勉強」も無しに、この楽章の「標題当てゲーム」をした場合、作曲者の与えたそれを答えられる者はただの一人もおるまい。)、何か思い出したように展開部ではめ込まれる、この交響曲でただ一カ所の「革命歌の引用」と思われるものも主要主題の「展開」に全く埋没しており、いずれにせよ「引用」そのものが目的の一部である前作「第11」とは大きく異なっている。
音楽自体は彼の作品を良く知る者にとっては実に「新鮮味の薄い」、既視感に満ち満ちたものとなっており、まず申し分無いようにも思われる処理法(例えば序奏と第一主題の外形が「全く同じ」であるために、「序奏の再現」が「第一主題の再現」と読み替えることが可能、という単純だが効果的な手法など)にも関わらず、冒頭モティーフの平凡さと、それとも関係付けられた、大きく取り上げられる第二主題の明るい音調の通俗性が(彼はどうしても先輩プロコフィエフの傑作「アレクサンドル・ネフスキー」、エイゼンシュテインの映画に付けられた、この輝かしい音楽と内容、そしてその成功が忘れ難いらしく、この交響曲のあちこちで「その余韻」を響かせているが、この主題とその扱いにもそれが感じられる。)示す通り、不思議なほど無意味な、「霊感無しに作曲する」という、ヴォルフがブラームスの「第4交響曲」をこき下ろす際に使った名台詞が思い出されるような「技術の空転」を感じさせる。(これは、常々「高い技術」を感じさせる訳では無いこの作曲家のことだけに、異例のことにも思われる。)ここで見られる、あまりショスタコービチらしくない「流麗さ」は、コーダにおける序奏の再現が全曲のコーダの「予告」を兼ねる、というアイディアに至るまで馬脚を現わさないが、以後の音楽は「標題的」な流れにも傾きがちで、このかっちりとした「第1楽章」を、かえって「異形」に感じさせることにもなる。(以降、次回。)
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2007年11月17日

音楽の「言語性」とは?(135)

確かに「目立った成果」ではあるのかも知れないが、「困った作品」、もしくは「成功作」と言えども「その要素」には事欠かない「不完全な」ショスタコービチの交響曲群の中でも(無論、交響曲に限った話でも無いが)「最も困った作品」、彼を特に支持しない者は勿論のこと、熱烈に支持する者ですら「言葉に詰まるような」、スバラシイ作品とされるのが「交響曲第12番」である。
「1917年」という副題が付けられたこの曲は、言うまでも無く「11番」の続編として「革命の成就」を描き、その指導者レーニンを賛美する、という内容であって、「十月革命とレーニンのイメージを具象化しようとした」という作曲者の「言わずもがな」の発言が示す通りである。(これに類似する発言は、同じ題材である「第2」の時、それから何故か「第6」の時にも見られた。もっとも、彼は当該作品に対して「上手く行かなかった」と付け加えることも忘れない。)
彼がこだわり続けてきたこのテーマを、「機は熟した」とばかりに取り組んだ訳だが、当時の「国家の重大行事」であるところの「共産党大会」への祝典的な「機会音楽」も兼ねており、作品の肯定的な内容や、良く非難の槍玉に挙げられる「人類の夜明け」という、フィナーレの「正気を疑うような」タイトル付けも、このような「事情」によるものと見ることも出来よう。
いずれにせよ、「11番」の鬱積した「暗さ」と、しかし集中度に欠ける纏まりの無さに対して、「続編」とは言うものの音楽の感触は大きく異なっており、曲はコンパクトに「予定調和的に」進められ、この作曲者としては比較的「無駄の無い構成」を示しているにも関わらず、より「空転」の感じは強くなり、見事に「説得力に欠ける」その出来映えは、前作のような「具体的な情景描写」が不可能であることによる「理念的な内容」と、彼が意図したR.シュトラウス風の流麗なモティーフ操作が「不一致」を生じていることが主な原因だと思われる。
作曲者は、「やろうと思えば出来る」と言わんばかりに、ヴェテラン作曲家ならではの「名人芸」を示そうとしているのだが、第1楽章の、絵に描いたような「序奏付きアレグロ楽章」が示す通り、何か「借り物」であるかのような印象(彼の成功した「交響曲の第1楽章」が、いつも「ゆっくりしたテンポ」によるものであることは良く知られている。彼は「本格的な交響的アレグロ」を書く、という意欲を示す発言を「第10」の発表後にもしている、ということらしいが、「第1」や「第9」のような「変則技」のようなものしか書いていないのは確かである。)が拭えない。
それは、ショスタコービチがR.シュトラウスやラヴェルのような「職人芸」とは「遠い存在」であることを示すばかりであり、いつも不徹底であるとは言え、彼の「美点」である「内的な傾向」を、ここでは意図的に欠いていることで生じた表現と内容の「実体の無さ」が、その技術的な高さにも関わらず「第12」を衆目一致する「駄作」としているのである。
これは一種の「罠」であって、「1961年」という信じ難い作曲の年を度外視しても、「名のある作曲家」が本気で取り組んだものとしては殆どあり得ないような「空虚さ」は、前述通り、この後の作曲家に、何がしかの「豊かな実り」があろうとは到底想像出来ないようなものなのである。(以降、次回。)

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2007年11月10日

音楽の「言語性」とは?(134)

ショスタコービチは「交響曲第11番」で、そのフィナーレである第4楽章において何とか収拾を付けようと躍起になったようであるが、既存のモティーフや新たな「革命歌」の引用を総動員し、持てるテクニックを駆使して築き上げたR.シュトラウス的「動機合成」によるクライマックスは、その聴き映えのするオーケストレーション共々、どうにも「空転」の印象を拭えない。
既に述べた通り、「革命歌」もしくは「その類似品」である自作などの数々の「引用」は、「思い入れ」はともかくも(作曲者には、それぞれの素材が「スバラシイもの」と思えるのだろうが)、「素材」としては「あまりにも平凡」であり、このような「合成処理」にふさわしいものではない上、「指導動機」を処理するような手際で扱われるには、それぞれの定義付けは曖昧に過ぎ、単に「好きなフレーズを適当に組み合わせた」ものとしか聴こえない危険もある。
現に、前楽章でもクライマックスとして用いられた「短二度と同音反復」が、またも使われ、イングリッシュ・ホルンの「モノローグ」などの「お決まりの手」の羅列と相まって、さながら「セルフ・パロディー」の観を呈しており、「警鐘」なる意味深長なタイトルも実際にコーダで打ち鳴らし続けられる実際の「鐘」の音色の乱用によって、皮相なものへと転ずる。
楽章の進行は殆どポプリのようにも聴こえ、さながらリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の、あの中では一番出来の良く無い、例の第4楽章の親戚のように響くが、音楽自体は、何となくマーラーの「第2」のフィナーレ第5楽章を思わせる所があるようにも思われる。(これはマーラーにおける「復活」という概念に影響されたためかも知れぬ。)
「情景描写」の前半二楽章や、第3楽章とも違って「時間軸を持たない」この楽章は、この交響曲で最も「思想的」であって、その「アジる」ような性格で、これに共感出来ぬ聴き手を見事に辟易させてくれるが、全てをレスピーギよろしく「音楽絵巻」のように捉える「お気楽なアプローチ」が(それが作曲者の「意図通り」とは到底思えないが)、この「交響曲」を演奏会レパートリーに上らせることになり、ショスタコービチの、ここでの「もう一つの目標」だったとも思える「名人芸的作品」としての「需要」を呼び起こすことにはなったらしい。(実際、そのような捉え方でも無ければ、この「交響曲」の出来具合は「相当お粗末」であり「その名に価するもの」としては「相当堪え難いもの」であるため、結局「料理法」としては正しいのであろう。)
ともあれ、その流暢さに欠ける音楽に不満だったためか、作曲者は筋書き上では連続することになる「続編」を準備し、そのテーマと相容れないような「音楽処理上のテクニカルな要素」を押し進めた「交響曲」を、もう一つ書くことになる。
それが、「全てがスバラシイ訳ではない」凸凹だらけの彼の「交響曲」群の中でも、衆目の一致する所「最大の駄作」である「12番」となるのである。(以降、次回。)

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2007年11月03日

音楽の「言語性」とは?(133)

何の予備知識も無しにショスタコービチの「交響曲第11番」の第3楽章を聴いて、その「作曲年代」を「ぴたりと当てられる」人は、まずおるまい。
シェーンベルクが死んで5年以上が経ち、ピエール・ブーレーズが「ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)」で脚光を浴びた「以後」に、このような「チャイコフスキーまがいのような音楽」が、世に知られた「高名な作曲家」の手によって書かれるとは、「悪い冗談」というのでなければ、「映画音楽」か、同類の何かという「言い訳」が無ければ、かつての「西側」では、到底許してもらえぬ所だろうが(それは「状況」が変わった現在とて、そうは変わるまい。)、「旧ソ連」では、それが罷り通り、それどころか「レーニン賞」なる「お墨付き」まで付いて「国家保証」されるというのだから、全く恐れ入る。
それでなくとも「調性感」の強いこの「交響曲」の中でも、とりわけこれは「それを壊さないように」書かれており、それは「葬送行進曲」であるこの音楽を裏打ちしてもいるのだが、予想以上に「古いスタイル」と感じられるそれは、前楽章の「やり過ぎ」の反動でもある。
前述通り、この「交響曲」では前半と後半とで「位相」が違っており、「筋書き上」では一貫しているように見えるものの、前半の音楽が余りにも「映像的」であるのに対して、後半部は「描くべき光景」を持たないため「心理描写」にならざるを得ない訳なのだが、これは「傍観的」な前半と、「主観的」な後半、という図式、そして「共感を強いる」という例の「悪癖」を強調する事になる上、「対象が対象」だけに「その度合い」は極めて強くなっている。
しかし、前半と後半を繋ぐ「伏線」は外的な筋書き以外には「きっぱりと欠けて」おり、ただ「革命歌の使用」と一部の素材の「使い回し」だけが「共通要素」とされているのみである。
しかし、その「用法」は第3楽章においては幾分異なっていて、動機的に「分解」されたり、といった今までの扱いと違い、「追悼」のお題目のもとに「有無をも言わせぬもの」として「革命歌」をそのまま用いる、という「体制のお抱え作曲家」と呼ばれるにふさわしい扱いがされる。
その「何の加工も行われぬ直接性」は、まるでこれが「変奏主題」であるかのように思わせるのだが、驚くべき事に、何も起こらず音楽はそのまま続き、さすがにショスタコービチらしい「ひねり」も現れるとは言え、まるでチャイコフスキーか何かの「引用」のように響き続ける。
世に名高いベートーヴェンやヴァーグナー、ブルックナーやマーラーの「葬送音楽」に見られるような、胸を打つ「慰めるような長調」は、ここには無く、短調に支配された音調が、幾分マーラー風でもある中間部に至ってより強くなる。クライマックスでは、前楽章でも散々耳についた自作に基づく「お気に入りの」短二度と同音反復による音形が、またもや思い入れたっぷりに奏されるが、結びと主題の再現が兼ねられた主部の反復は、三部形式の「山」を中途で切らせたまま、何故か「ボリス・ゴドゥノフ」を想起させて、特に昇華さることもない無いまま、フィナーレの第4楽章へと移る。
この「あまりオリジナリティの感じられない」、「引用を羅列したような」出来の良いとは言えぬ「葬送音楽」は、無論「革命歌」という「練られていない」素材、民謡のような「世代のフィルター」や作曲家自前の「美学的フィルター」を通さない素材をそのまま用いたことに、その「出来具合」の原因を求められようが、それにしても、これを「発表する気になる」度胸にも驚かされる。
それとも、これが何かの「擬装」だとでも言うのであろうか。私には、どうしても「そのような要素」は発見出来ず、到底「ある」とも思えないのだが。(以降、次回。)

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