2007年10月13日

音楽の「言語性」とは?(130)

ショスタコービチの「交響曲第11番」は、ともかくも彼の交響曲中では「充実した成果」の一つではあった「第10番」の「後を受けるもの」としては、どうも「期待外れ」のようである。
それも「第9」の時のような、考えあぐねた末の「脱線」というよりは、明らかな「変節」と思えるような「態度の変化」が感じられ、これは次の「第12番」でも続く。
即ち、彼は「第4」(この時点では発表されていなかったが)以来、とにかくも維持されてはいた「交響曲」としての「それらしい体裁、内容」(但し「第7」は相当怪しいものだが)を半ば「放棄」して、「音画」めいた作業に没頭する、という、これまでの「マーラー」から「R.シュトラウス」に「宗旨替えした」ような、在る意味では「行き着く所」であった「第10」以後の「方策」としては解らないでもないような創作態度を示したのである。
「交響曲らしく」四つの楽章を持つとは言え、実際には、長大な「四部から成る交響詩」といった出来映えであり、それも、R.シュトラウスの、好悪はともかくも「巧緻」と「洗練」だけは認めねばならぬ「成果」を素通りして、「それ以前」の、リストから始まる「試行錯誤」の時代に逆戻りしたような「強引さ」「不器用さ」の感じられる「どちらかと言えば失敗の部類の交響詩」のコピーのような音楽は、延々と一時間あまりも続く。(演奏によっては「70分超」というものもある)
その上、作品の趣旨から「当然」であるかのように「短調の響き」が「ほぼ全域」を支配しており、「陰々滅々とした音楽」が最終ページまでの長丁場を埋め尽くしている。
ある意味では「第7」の後続作品である「第11」は、その「第7」よりもさらに「交響曲らしく無い」が、いずれにせよ「第2」「第3」を「そう名付けて」平気だった作曲家には大した問題では無いらしい。
次の「第12」と合わせて、その「第2」「第3」との対応関係にあるのも興味深いが、それぞれ質的にも近い「姉妹作」のように並べられ、いずれもが「政治的な」もしくは「歴史的な」事象を対象としている。即ち「第2」「第3」では、それぞれ「十月革命」「メーデー」、「第11」「第12」では「1905年」「1917年」と明確に「定義」が為され、しかも「第2」と「第12」は題材としては「同様のもの」ということにもなるらしい。
これらの「セット」は、特に後者のものでは「ロシア革命」の「発端」と「成就」という「対」を為しており「第12」の最後に至って「人類の夜明け」という、正気の沙汰とも思えぬようなタイトルのもとに目出度くも大団円を迎える、という算段となっているらしい。(しかし、R.シュトラウスどころか、スメタナが「我が祖国」で、強引にも感動的にやってのけたような「素材の共有」とか「循環」といった手法は全く考慮されておらず、音楽的には連続せず、完全に「不揃い」である。)
「第9」のショスタコービチとは別人のような「体制賛美」とも思えるここでの振る舞い、「この期に及んで何故こんなものが書かれたのか」という「疑問」は、例によって作曲者の「思わせぶりな発言」、ここでは「第11」の対象とする「時代」への「ノスタルジックな思い入れ」が語られたことで「正統化」されようとしたのだが、それを露骨に示す、当時のいわゆる「革命歌」、それらの「模作発展」とも言える、同一の題材による彼自身の「十の詩曲」の一部を「引用」どころか「主要主題」として利用する、という行為は、音楽そのものを変質させることになった。
このため、「第11」は発表当時から、彼を「社会主義リアリズムの権化」と見なす向きには、どう見ても「一級品」とは呼べない出来映え共々「格好の餌食」となったし、「前衛」が作曲の指標では無くなり、「ソ連」が消え果てて久しくなった現在では「生々しさ」も消え、かつての「西側」でも、その「解り易さ」のためか、これを「アルプス交響曲」のように聴きたがる人々に喜ばれることになったようである。(私としては、こんなものを聴かされる位なら、R.シュトラウスの「モラル的にはあんまり感心しない」交響詩の方が数倍以上も楽しめるが。)
その「解り易さ」には、素材のみならず「筋立て」の上でも「言い訳」がされており、「宮殿前広場の大虐殺」を柱として、「その事象」の描写、「犠牲者への追悼」、さらに「来るべきものへの展望」という具合に組み立て、「革命歌」も「描写に適した素材」として用いられる。
前述の「短調の響き」、無調的でもない文字通りの「短調」は、この「革命歌」等の利用に起因しており、それらの旋律が筋書きに沿って執拗に繰り返され、拡大され、分解され、組み合わされる経過によって全体の規模が膨れ上がっているのである。
この傾向は前半二楽章に顕著で、その「かなり具体的な描写」は、殆ど「映画音楽」のような感じすら与えるが、後半二楽章では「描写すべきもの」は「事象」というよりは「心理的なもの」に移り、このため「第7」の冒頭楽章と残りの楽章の関係にも似た「段差」が生じることになる。
その「段差」は、しかし、ここではもっと「深刻」で、こともあろうに「虐殺の光景」を相当リアルに「描写」しようとしたため、しかも事実上それが曲全体の「クライマックス」となってしまっているため、後半部の「描写の現場」から「内的な状況」へ位相を変えなければならない「役割」が「充分に機能」せず、結局は「鐘」という「象徴的音色」を用いる、という強引な手段に頼る他無くなった挙げ句、曲の「暗澹たる気分」も、そのまま残され、「交響曲」は「単に終止線が引かれただけ」のような「To be continued」の終結となる。
まあ、それはそれで「あり」なのだが、だから次の「第12」に期待すると、この「続編」は、期待と逆に「元居た場所から隔たった所」で曲を始めてしまうのである。(以降、次回。)



タグ:音楽
posted by alban at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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