2007年10月06日

音楽の「言語性」とは?(129)

ショスタコービチ「交響曲第10番」のフィナーレとなる第4楽章は、発表当初から、第2楽章と共に「どうも問題のあるもの」とされてきた。
これが、この交響曲の錯綜した内容に対して、完全な「解決感」を与えるようなもので無く、内容、長さ共に「不充分」であること、それに加えて、かなりの部分を占める「暗い序奏」(その再現も含む)に対して、主部アレグロが「軽く」「短い」こと、このため前者の「余韻」が相当に強いものとなり、これが「不足感」のもととなっていることについては、妥当にも指摘されてきた。(この「主部」の「長さ」の問題は、少なくとも楽譜上の「見掛け」では存在しておらず、ページ数では序奏に対して「全く充分」の分量なのであるが、速いテンポ設定のために「演奏してみると違っていた」という、「かなり基本的な問題」である可能性があり、これはヴェテラン作曲家が犯す「間違い」としては極めて考えにくいのだが、「書いた音符の分量」のために勘違いが起きることは、彼のような図抜けた「速筆」ならばあり得る「事故」なのかも知れぬ。この「アンバランス」が「意図的」でないことは彼の発言からも明らかで、動機操作などに気を配ったせいもあるかも知れぬ。)
作曲者もこれを認めたものの、何ら「改善」が図られなかったのも述べた通りだが、これは彼の「交響曲のフィナーレ」としては悪い出来ではなく、確かに「シリアス」でもあるが、その際、彼が見せがちな「本気」だか「芝居」だか良く解らない「深刻ぶり」や、その正反対の「おちゃらけフィナーレ」とも異なり、内容的にも空虚さは無く、全体のバランスこそ悪いものの、各部分自体は比較的簡潔に無駄無くまとめられており、いつもの「過度な通俗音楽の混入」も避けられ、派手な「外面的効果」に頼る面も少ない、という「美点」もあり、彼の「純音楽スタイル」による交響曲の系列の最後を飾るものとして「ふさわしい出来映え」と言える面も確かに備えている。
序奏は、前作「第9」なら間違い無く「楽章」として「番号打ち」される所だが、これまで「緩やかなテンポ」を主体としてきたこの交響曲に、実際には欠けている「緩徐楽章」、とりわけ「旋律」の要素を補う部分としても機能しており、これが「内容的な要求」に加えて、この序奏を長くさせる要因となっている。
しかしこれは「独立したもの」では無く、主部との繋がりは充分に確保され、モティーフ連関以外にも、アレグロ部でも序奏の素材が直接的に利用され、序奏自体も「回想的な再現」果たす事でショスタコービチとしては珍しい「練られた構想」の痕跡を示している。
最初に低弦で出る旋律が、この楽章の基調を為すモティーフとなるが、無論、第1楽章冒頭の「基本動機」とも関連している。但し、「基本動機」の短三度音程中心の進行は余り見られず、代わりに四度下降、もしくは五度上昇(全楽章の「大地の歌」動機が契機と思われる。)、半音の「ずれ」を伴う一時的な転調が目立つ。これを引き継ぐ際のオーボエや反復の際のファゴットの長いソロは、例の「モノローグ」、特に前作「第9」のファゴット・ソロを思い出させるが、ここではレチタティーヴォ的な「感情移入」は避けられている。
この序奏では、前述の「緩徐楽章」としての機能の他に、彼が度々試みつつも失敗を重ねて来たベートーヴェン的な「主題生成部」、つまりは「アレグロ部」の「生成」を行おうとしており、且つ、木管の重ね方や第1楽章冒頭と同様の弦の和音の延ばし方でも解るように、「位相」を冒頭楽章のそれに戻し、さらにそこから「再出発」するために、時間的、空間的な「異化」を行おうとしていると思われる。(もっとも、これが「必要になった」のは、第3楽章における「やり過ぎ」が主な原因と考えられるのであるが。ここで彼がマーラー的な手法、例えば「第6」のフィナーレにおけるような「主部への移行」を念頭に置いているのは間違い無かろう。)
序奏には冒頭のモティーフの他にも、何度も繰り返される、鳥の声を思わせるような、しかし半音階を含むアーチ状の動機(gis-h-c-h-ais-a-gis)があり、これが音高は違うものの「d-s-c-h」を「もじった」ものであるのは「大地の歌」動機が序奏主題に含まれることからも明らかである。
アレグロへの移行は付点リズムを含む五度上行と「鳥の声」から派生した動機を繰り返す事で極めてスムーズに為され、これが主部の第一主題へと発展するのである。
とは言え、この序奏と主部の結びつき方は、通常の「序奏付きソナタ」の定型的バランスからは相当ずれており、これを補正する為にはアレグロ部を延長する他はないが、設定テンポと、そもそもの主題が「展開に適さない」ものであるため、「あまり長くは持ちこたえられない」のも確かである。
主部の音楽は彼の音楽としては異例に「軽やかな」感じが強く、「第6」のフィナーレのような角張った、歪んだ通俗性の無い「毒の少なさ」は、チャイコフスキーを思わせるような(「第4」「第6」「くるみ割り人形」といったもの」)点もあり、何となく「トイ・ミュージック」的でもある。
(但し、この旋律の進行を「脱線」させる、主題冒頭から取り出した五度上行動機の「調子外れの合いの手」は、おそらくマーラーの「第5」のフィナーレに由来していると思われる。)
第一主題はチャイコフスキーを介して「ロシア的」なものを示唆するが、第二主題は民族舞曲の「引用」のような音調によってそれを強めている。(しかし、これは「パロディー的」ではない。)
これによって短調に傾いたため、これを利用して「d-s-c-h」動機が不穏な感じで「侵入」し、次いで、序奏主題や「鳥の声」、第一主題の要素が組み合わされ「混乱」の相を呈するが、このクライマックスとして。第2楽章の引用と思しき短三度動機のシークエンスに「d-s-c-h」動機が直接続く、という「注目すべき部分」が現れ、これを契機に序奏部の「回想」が導入される。
これは文字通りの「再現」ではなく「展開部」をも兼ねており、序奏主題を基調に、コラージュのようにアレグロ部や「鳥の声」「d-s-c-h」動機が現れるが動機的展開は行われず、これらを断片的に「フラッシュッバック」させることで簡潔に手際良く行われる(これもまたマーラーの「第1」フィナーレの「回想部分」を想起させる。)
主部への復帰は小太鼓やシンバル打ちのリズムに乗って(しかし「軍隊的」ではなく、「トイ・ミュージック」的に感じられる。)、道化たファゴットが第一主題を二倍の音価で奏する「意表を付いた方法」で為されるが、「回想」の余韻を引きずるようなこの方法は、前作「第9」のファゴットの用法の応用でもあるが、心理的にも「極めて妥当なやり方」であろう。
ファゴットが主題最後の二小節をオスティナートとして繰り返し始めると、今度はクラリネットが元の音価で主題を引き継ぎ、いよいよ提示部では頓挫した「アレグロ」が最終局面となる。
提示部の「脱線」は、ここでは連続するフレーズとして「肯定的なもの」となり、音楽の流れを助ける。第一主題、第二主題の要素が交互に利用され、結局、第二主題が主導権を握るように思えた瞬間、不意に「d-s-c-h」動機が様々な長さで執拗に繰り返されて強引にコーダを呼び込む。
最後にはティンパニがこれを連打して「鳥の声」由来の音形を上声が繰り返し、「大団円」となるが、交響曲冒頭から「影を潜めていた」とはいえ、途中から「d-s-c-h」が自己主張を始め、しまいには「主役」そのものとなるような運びは、「交響曲」としては(いかな「モティーフ上の操作」があるとは言え)いささか強引に過ぎる感が無くもない。(それに、「d-s-c-h」は、フィナーレの「ホ長調」として解釈するには、かなり「曲解」が必要でもある。)
「解決感」の欠如がこれにも由来することは確かで、第1楽章と第2楽章、さらに第3楽章、第4楽章と、それぞれの「継ぎ目」で歪みが生じており、「全てを統合すべき」フィナーレも、結局は「軋轢に耐えられず」、何か「問題をはぐらかした印象」は拭えない。
こうして、またしても彼は「完璧な交響曲」を作る事に失敗したのだが、にも関わらず「第10」が「質の高さ」を持っていることも確かで、そのためか、彼は「それでも満足した」のであろう。
そして、「第10」は、実質的には、彼の「本筋での」「最後の交響曲」となり、そして「到達点」となったのである。(「d-s-c-h」は「そのような理解」も可能にするものであろう。)
この後、彼は呆れ返るような「変節」を見せ、二曲の「体制のウケ狙い」としか思えないような「標題音楽」を、こともあろうに「交響曲」と呼びたがる「ご乱心」を見せたあげく、挙げ句の果てに「第12」の時には、まさに「終わった作曲家」と見なされるはめに陥る事になる。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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