2007年10月27日

音楽の「言語性」とは?(132)

ショスタコービチが、その「交響曲第11番」において意図したものは、確かに「過去の革命への過程における犠牲者達への追悼」であったのかも知れないが、この作品の「中心楽章」として作られた第2楽章の出来映えを見る限り、その「重いテーマ」、「課題」に対して、彼が「どれだけ真剣に向き合ったか」については、どうにも「疑問」を感じざるを得ない。
毎度お馴染みの「ボタンの掛け違い」の中でも、これは彼の全作品を通じても「最も強烈な一発」であって、作品は「暗いトーン」であるものの「自分は躁状態」の作曲者は、「第7」の時以上に「万能感の虜」であって、「大量虐殺」を「音画的」に描こう、という突拍子も無い考えにとらわれ、これに真正面から取り組んでしまう、という、「断頭台の場面」をパロディックな形でしか描かなかった、ベルリオーズやR.シュトラウスですら「やろうとしなかったこと」を、こともあろうに「交響曲の中心」に置いてしまったのである。
それは確かに「力作」なのだろうが、まるでレスピーギの「ローマの祭」のような音響で描かれるそれは(この楽章がレスピーギの「チルチェンセス=Circenses」、暴君ネロがキリスト教徒を猛獣に喰わせた、という「見せ物」を描いたという音楽と「どれほど隔たっていないか」を知ると、また、それぞれの作品の「スタンスの違い」について考えると、全く驚かされる。これは「酷似」とも呼ぶべきものである。)「民衆の嘆き、叫び」を描く筈の「革命歌」が、ここでは主要な二つともが「自作の合唱曲の旋律」であることも相まって(「十の詩曲」の中の「1月9日」という、同じ題材に基づくものではあるが)、作曲者の「暴走」の感を強くさせる。
彼は「神のごとく」、「その情景」を描こうとするのだが、このような「本来的には深刻であるもの」を「写実的に音楽化する」のは「一種の定型」でもあって、一連の「戦争描写作品」、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」とかチャイコフスキーの「大序曲1812年」とかの有名作もあるが、いずれも「ドンパチ系」の「御目出度い機会音楽」であり、音楽オモチャである「自動演奏器」用に書かれた前者や(別名「戦争交響曲」の題が示す通り、ベートーヴェンが「遊び半分」なのは明らかである。)、作曲者が依頼を断りきれず書き「後で恥じ入る」はめになった後者とは、「自ずから事情が異なる」のは明らかで(ショスタコービチにも幾分か「そのような意図」があったかも知れぬが。)、そもそも、「このような時点(完成は1957年)」で「このようなもの」が書かれている、という事自体が充分以上に「イカれて」いる。(困ったことには、彼は先人達の「機会音楽の事例」を充分に承知しているらしく、あまつさえ、「軽い」と評判のレスピーギの代表作の音楽絵巻における「効果的なオーケストレ−ション」も忘れられないようですらある。)
かくて、題材の「差」もあってか、大戦後、日本を手始めに各国の作曲家がこぞって書きたがった「原爆音楽」における、破滅的、絶望的な音楽とは決定的に異なる「音画」が描かれ(「原爆」をテーマにした音楽は、その「あまりに想像を絶する」悲惨さのためか、このような「描写」を「全く許さない」面があり、「エノラ・ゲイから原爆が落とされる光景」や「キノコ雲の様子」を「音画化すること」が「可能以前の問題」として、そもそも「全く非難に値する」ことは、「このようなテーマ」に引っ掛かる作曲家にとっては、無論「自明の理」であった。)、「功成り名を遂げた」作曲家が残した作品としては、まさに「愚の骨頂」としか言いようのない結果をもたらした。
これは彼が「R.シュトラウス」だったとしても「失敗して当然」の試みであり(もっとも、根っからの「エンタテイナー」であるR.シュトラウスが、このような「喰えないアイディア」に「うつつを抜かす」とは考えられないが。)、三連符系の「民衆」と二連符の「皇帝側」で書き分けられる「人々の様子」や、大音響の「当該シーン」、「虐殺の後の静寂」が、ご丁寧にも短調化された(しかしあまり効果的ではない)曲頭の「宮殿前広場」の音楽で戻って来る楽章の終結まで、文字通り「映画に合わせて作られた音楽」であるプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」(フィルムのコマ割りにぴったり合わせて作曲されている)さながらに響く「交響曲」は、「もはや修復の効かない」裂け目を作ったあげく、後続楽章に「責任」を押し付ける。
そして奏でられる次の「葬送曲」は、我々には「ロシア民謡」にしか聴こえない「革命歌」を「まるまる引用」して始まり、それが「当然の流れ」とは言え、またも「唖然とさせてくれる」のである。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月20日

音楽の「言語性」とは?(131)

ショスタコービチ「交響曲第11番」の第1楽章は、その時間的な長さだけで言えば「それなりの冒頭楽章」のようにも思えるが、実際の所は、全曲の、少なくとも「外的なクライマックス」である第2楽章の「長い序奏」の役割しか果たしていない。
これは、第1、第2楽章が素材的にも共通性、連続性を持ち、内容的にも関連させられているマーラーの「第5」の場合とは違い、要するに「無防備な民衆への大量虐殺」の前の「現場の不穏な静けさ」を延々と「描写」し、「前景」を準備しているに過ぎず、当然ながら、あまり「交響曲」と呼ぶにふさわしい内容を備えているとも思われない。
「宮殿前広場」の題のもとに始められる音楽は、その寒々とした空間を描写する為に、空虚五度の和音が延ばされる中を、動きの乏しい、弦のユニゾンの弱奏による薄気味悪い旋律を何度も繰り返すのだが、その殺伐とした映像的な響きは、早くもこれが「交響曲らしい」「抽象性」とか「精神性」とかいったものとは隔たっているらしいことを思い知らせる。
「全体としてはR.シュトラウス風」でありながら、ここでも「マーラーの影」は明らかで、冒頭の響きは「第1」の序奏とか「第2」のフィナーレを思い出させるし、続いて現れる三連符のティンパニの動機やトランペットの信号風な動機も「第2」を想起させ、特に後者はフィナーレの激しい序奏の直後に現れる「ホルンの動機」に、外形的にも意味的にもかなり接近している。
ショスタコービチの方は勿論「より具体的に」事象を指し示している訳だが、この「トランペット動機」中に現れる、「短二度音程の反復」は(「ファーミ、ファーミ」と聴こえる)異様であって、本来、このような陰鬱な音程は「信号ラッパ」には「含まれない筈」のものなのだが、いかにも「ショスタコービチ的」に聴こえる。
しかし、これもマーラーの「第2」のフィナーレに現れる、後に独唱で「O glaube」と歌われる動機と、その反復どころか「ges-f」という音高自体も全く一致しており、これで複数以上の類似が見られることのなるのだが、この「第11」の「趣旨」からしても、ショスタコービチが、マーラーがその「第2」に与えた「復活」という題に何らかの「影響を受けた」ということは「いかにもありそうな話」であるが、これらが「引用」なのかどうかは、はっきりしていない。
但し、音楽の進行そのものは、「第2」のフィナーレよりも「第1」の冒頭楽章、マーラーが「自然の音」と呼んだ、「四度のカッコウ」や「狩りのホルン」が現れる名高い序奏部に「より近く」、その「感じ」はショスタコービチが「革命歌」の旋律をフルートで「引用」するに至って強くなる。(これがまたマーラーの序奏における「アルペンホルンの旋律」を思い出させる。)
この楽章は、このマーラーの事例を一つの楽章にまで拡大させたような感じすらあるが、その「拡大」は、これらの材料の反復とオーケストレーションの変化、別の「革命歌」の引用などによる「不穏な雰囲気」の増大によって為されているが、「革命歌」に関わる部分では幾分「展開風の扱い」があり、作曲者の「思い入れ」と共に、「交響曲」としての「展開部」の役割を負わせ、これを挿んで「ソナタ形式風」の外観を得ようとしているとも思われる。
この「措置」は第1楽章を「交響曲」として、いかにも「正統化」しているように見えるが、これがまたも「計算違い」であることは明白で、半ば「ソナタ的発想」を導入したがために、実際の音楽の密度に乏しい書法や描写的な性格、何より、この「形式」の導入のために、楽章の「終結部」、即ち、第2楽章への「移行部」が、「再現部」から出発することになり、冒頭の雰囲気が回帰することになる為、「事件」への「不可避的な」一方向性が失われる事になるのだが、これは、当該「場面」を音楽で「描写」しようとする、という意図とも矛盾している。
もっとも、少々の「傷」は、次の第2楽章における二重の意味での「暴虐」によって吹き飛ばされてしまうのではあるが。(以降、次回。)





タグ:音楽
posted by alban at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

音楽の「言語性」とは?(130)

ショスタコービチの「交響曲第11番」は、ともかくも彼の交響曲中では「充実した成果」の一つではあった「第10番」の「後を受けるもの」としては、どうも「期待外れ」のようである。
それも「第9」の時のような、考えあぐねた末の「脱線」というよりは、明らかな「変節」と思えるような「態度の変化」が感じられ、これは次の「第12番」でも続く。
即ち、彼は「第4」(この時点では発表されていなかったが)以来、とにかくも維持されてはいた「交響曲」としての「それらしい体裁、内容」(但し「第7」は相当怪しいものだが)を半ば「放棄」して、「音画」めいた作業に没頭する、という、これまでの「マーラー」から「R.シュトラウス」に「宗旨替えした」ような、在る意味では「行き着く所」であった「第10」以後の「方策」としては解らないでもないような創作態度を示したのである。
「交響曲らしく」四つの楽章を持つとは言え、実際には、長大な「四部から成る交響詩」といった出来映えであり、それも、R.シュトラウスの、好悪はともかくも「巧緻」と「洗練」だけは認めねばならぬ「成果」を素通りして、「それ以前」の、リストから始まる「試行錯誤」の時代に逆戻りしたような「強引さ」「不器用さ」の感じられる「どちらかと言えば失敗の部類の交響詩」のコピーのような音楽は、延々と一時間あまりも続く。(演奏によっては「70分超」というものもある)
その上、作品の趣旨から「当然」であるかのように「短調の響き」が「ほぼ全域」を支配しており、「陰々滅々とした音楽」が最終ページまでの長丁場を埋め尽くしている。
ある意味では「第7」の後続作品である「第11」は、その「第7」よりもさらに「交響曲らしく無い」が、いずれにせよ「第2」「第3」を「そう名付けて」平気だった作曲家には大した問題では無いらしい。
次の「第12」と合わせて、その「第2」「第3」との対応関係にあるのも興味深いが、それぞれ質的にも近い「姉妹作」のように並べられ、いずれもが「政治的な」もしくは「歴史的な」事象を対象としている。即ち「第2」「第3」では、それぞれ「十月革命」「メーデー」、「第11」「第12」では「1905年」「1917年」と明確に「定義」が為され、しかも「第2」と「第12」は題材としては「同様のもの」ということにもなるらしい。
これらの「セット」は、特に後者のものでは「ロシア革命」の「発端」と「成就」という「対」を為しており「第12」の最後に至って「人類の夜明け」という、正気の沙汰とも思えぬようなタイトルのもとに目出度くも大団円を迎える、という算段となっているらしい。(しかし、R.シュトラウスどころか、スメタナが「我が祖国」で、強引にも感動的にやってのけたような「素材の共有」とか「循環」といった手法は全く考慮されておらず、音楽的には連続せず、完全に「不揃い」である。)
「第9」のショスタコービチとは別人のような「体制賛美」とも思えるここでの振る舞い、「この期に及んで何故こんなものが書かれたのか」という「疑問」は、例によって作曲者の「思わせぶりな発言」、ここでは「第11」の対象とする「時代」への「ノスタルジックな思い入れ」が語られたことで「正統化」されようとしたのだが、それを露骨に示す、当時のいわゆる「革命歌」、それらの「模作発展」とも言える、同一の題材による彼自身の「十の詩曲」の一部を「引用」どころか「主要主題」として利用する、という行為は、音楽そのものを変質させることになった。
このため、「第11」は発表当時から、彼を「社会主義リアリズムの権化」と見なす向きには、どう見ても「一級品」とは呼べない出来映え共々「格好の餌食」となったし、「前衛」が作曲の指標では無くなり、「ソ連」が消え果てて久しくなった現在では「生々しさ」も消え、かつての「西側」でも、その「解り易さ」のためか、これを「アルプス交響曲」のように聴きたがる人々に喜ばれることになったようである。(私としては、こんなものを聴かされる位なら、R.シュトラウスの「モラル的にはあんまり感心しない」交響詩の方が数倍以上も楽しめるが。)
その「解り易さ」には、素材のみならず「筋立て」の上でも「言い訳」がされており、「宮殿前広場の大虐殺」を柱として、「その事象」の描写、「犠牲者への追悼」、さらに「来るべきものへの展望」という具合に組み立て、「革命歌」も「描写に適した素材」として用いられる。
前述の「短調の響き」、無調的でもない文字通りの「短調」は、この「革命歌」等の利用に起因しており、それらの旋律が筋書きに沿って執拗に繰り返され、拡大され、分解され、組み合わされる経過によって全体の規模が膨れ上がっているのである。
この傾向は前半二楽章に顕著で、その「かなり具体的な描写」は、殆ど「映画音楽」のような感じすら与えるが、後半二楽章では「描写すべきもの」は「事象」というよりは「心理的なもの」に移り、このため「第7」の冒頭楽章と残りの楽章の関係にも似た「段差」が生じることになる。
その「段差」は、しかし、ここではもっと「深刻」で、こともあろうに「虐殺の光景」を相当リアルに「描写」しようとしたため、しかも事実上それが曲全体の「クライマックス」となってしまっているため、後半部の「描写の現場」から「内的な状況」へ位相を変えなければならない「役割」が「充分に機能」せず、結局は「鐘」という「象徴的音色」を用いる、という強引な手段に頼る他無くなった挙げ句、曲の「暗澹たる気分」も、そのまま残され、「交響曲」は「単に終止線が引かれただけ」のような「To be continued」の終結となる。
まあ、それはそれで「あり」なのだが、だから次の「第12」に期待すると、この「続編」は、期待と逆に「元居た場所から隔たった所」で曲を始めてしまうのである。(以降、次回。)



タグ:音楽
posted by alban at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月06日

音楽の「言語性」とは?(129)

ショスタコービチ「交響曲第10番」のフィナーレとなる第4楽章は、発表当初から、第2楽章と共に「どうも問題のあるもの」とされてきた。
これが、この交響曲の錯綜した内容に対して、完全な「解決感」を与えるようなもので無く、内容、長さ共に「不充分」であること、それに加えて、かなりの部分を占める「暗い序奏」(その再現も含む)に対して、主部アレグロが「軽く」「短い」こと、このため前者の「余韻」が相当に強いものとなり、これが「不足感」のもととなっていることについては、妥当にも指摘されてきた。(この「主部」の「長さ」の問題は、少なくとも楽譜上の「見掛け」では存在しておらず、ページ数では序奏に対して「全く充分」の分量なのであるが、速いテンポ設定のために「演奏してみると違っていた」という、「かなり基本的な問題」である可能性があり、これはヴェテラン作曲家が犯す「間違い」としては極めて考えにくいのだが、「書いた音符の分量」のために勘違いが起きることは、彼のような図抜けた「速筆」ならばあり得る「事故」なのかも知れぬ。この「アンバランス」が「意図的」でないことは彼の発言からも明らかで、動機操作などに気を配ったせいもあるかも知れぬ。)
作曲者もこれを認めたものの、何ら「改善」が図られなかったのも述べた通りだが、これは彼の「交響曲のフィナーレ」としては悪い出来ではなく、確かに「シリアス」でもあるが、その際、彼が見せがちな「本気」だか「芝居」だか良く解らない「深刻ぶり」や、その正反対の「おちゃらけフィナーレ」とも異なり、内容的にも空虚さは無く、全体のバランスこそ悪いものの、各部分自体は比較的簡潔に無駄無くまとめられており、いつもの「過度な通俗音楽の混入」も避けられ、派手な「外面的効果」に頼る面も少ない、という「美点」もあり、彼の「純音楽スタイル」による交響曲の系列の最後を飾るものとして「ふさわしい出来映え」と言える面も確かに備えている。
序奏は、前作「第9」なら間違い無く「楽章」として「番号打ち」される所だが、これまで「緩やかなテンポ」を主体としてきたこの交響曲に、実際には欠けている「緩徐楽章」、とりわけ「旋律」の要素を補う部分としても機能しており、これが「内容的な要求」に加えて、この序奏を長くさせる要因となっている。
しかしこれは「独立したもの」では無く、主部との繋がりは充分に確保され、モティーフ連関以外にも、アレグロ部でも序奏の素材が直接的に利用され、序奏自体も「回想的な再現」果たす事でショスタコービチとしては珍しい「練られた構想」の痕跡を示している。
最初に低弦で出る旋律が、この楽章の基調を為すモティーフとなるが、無論、第1楽章冒頭の「基本動機」とも関連している。但し、「基本動機」の短三度音程中心の進行は余り見られず、代わりに四度下降、もしくは五度上昇(全楽章の「大地の歌」動機が契機と思われる。)、半音の「ずれ」を伴う一時的な転調が目立つ。これを引き継ぐ際のオーボエや反復の際のファゴットの長いソロは、例の「モノローグ」、特に前作「第9」のファゴット・ソロを思い出させるが、ここではレチタティーヴォ的な「感情移入」は避けられている。
この序奏では、前述の「緩徐楽章」としての機能の他に、彼が度々試みつつも失敗を重ねて来たベートーヴェン的な「主題生成部」、つまりは「アレグロ部」の「生成」を行おうとしており、且つ、木管の重ね方や第1楽章冒頭と同様の弦の和音の延ばし方でも解るように、「位相」を冒頭楽章のそれに戻し、さらにそこから「再出発」するために、時間的、空間的な「異化」を行おうとしていると思われる。(もっとも、これが「必要になった」のは、第3楽章における「やり過ぎ」が主な原因と考えられるのであるが。ここで彼がマーラー的な手法、例えば「第6」のフィナーレにおけるような「主部への移行」を念頭に置いているのは間違い無かろう。)
序奏には冒頭のモティーフの他にも、何度も繰り返される、鳥の声を思わせるような、しかし半音階を含むアーチ状の動機(gis-h-c-h-ais-a-gis)があり、これが音高は違うものの「d-s-c-h」を「もじった」ものであるのは「大地の歌」動機が序奏主題に含まれることからも明らかである。
アレグロへの移行は付点リズムを含む五度上行と「鳥の声」から派生した動機を繰り返す事で極めてスムーズに為され、これが主部の第一主題へと発展するのである。
とは言え、この序奏と主部の結びつき方は、通常の「序奏付きソナタ」の定型的バランスからは相当ずれており、これを補正する為にはアレグロ部を延長する他はないが、設定テンポと、そもそもの主題が「展開に適さない」ものであるため、「あまり長くは持ちこたえられない」のも確かである。
主部の音楽は彼の音楽としては異例に「軽やかな」感じが強く、「第6」のフィナーレのような角張った、歪んだ通俗性の無い「毒の少なさ」は、チャイコフスキーを思わせるような(「第4」「第6」「くるみ割り人形」といったもの」)点もあり、何となく「トイ・ミュージック」的でもある。
(但し、この旋律の進行を「脱線」させる、主題冒頭から取り出した五度上行動機の「調子外れの合いの手」は、おそらくマーラーの「第5」のフィナーレに由来していると思われる。)
第一主題はチャイコフスキーを介して「ロシア的」なものを示唆するが、第二主題は民族舞曲の「引用」のような音調によってそれを強めている。(しかし、これは「パロディー的」ではない。)
これによって短調に傾いたため、これを利用して「d-s-c-h」動機が不穏な感じで「侵入」し、次いで、序奏主題や「鳥の声」、第一主題の要素が組み合わされ「混乱」の相を呈するが、このクライマックスとして。第2楽章の引用と思しき短三度動機のシークエンスに「d-s-c-h」動機が直接続く、という「注目すべき部分」が現れ、これを契機に序奏部の「回想」が導入される。
これは文字通りの「再現」ではなく「展開部」をも兼ねており、序奏主題を基調に、コラージュのようにアレグロ部や「鳥の声」「d-s-c-h」動機が現れるが動機的展開は行われず、これらを断片的に「フラッシュッバック」させることで簡潔に手際良く行われる(これもまたマーラーの「第1」フィナーレの「回想部分」を想起させる。)
主部への復帰は小太鼓やシンバル打ちのリズムに乗って(しかし「軍隊的」ではなく、「トイ・ミュージック」的に感じられる。)、道化たファゴットが第一主題を二倍の音価で奏する「意表を付いた方法」で為されるが、「回想」の余韻を引きずるようなこの方法は、前作「第9」のファゴットの用法の応用でもあるが、心理的にも「極めて妥当なやり方」であろう。
ファゴットが主題最後の二小節をオスティナートとして繰り返し始めると、今度はクラリネットが元の音価で主題を引き継ぎ、いよいよ提示部では頓挫した「アレグロ」が最終局面となる。
提示部の「脱線」は、ここでは連続するフレーズとして「肯定的なもの」となり、音楽の流れを助ける。第一主題、第二主題の要素が交互に利用され、結局、第二主題が主導権を握るように思えた瞬間、不意に「d-s-c-h」動機が様々な長さで執拗に繰り返されて強引にコーダを呼び込む。
最後にはティンパニがこれを連打して「鳥の声」由来の音形を上声が繰り返し、「大団円」となるが、交響曲冒頭から「影を潜めていた」とはいえ、途中から「d-s-c-h」が自己主張を始め、しまいには「主役」そのものとなるような運びは、「交響曲」としては(いかな「モティーフ上の操作」があるとは言え)いささか強引に過ぎる感が無くもない。(それに、「d-s-c-h」は、フィナーレの「ホ長調」として解釈するには、かなり「曲解」が必要でもある。)
「解決感」の欠如がこれにも由来することは確かで、第1楽章と第2楽章、さらに第3楽章、第4楽章と、それぞれの「継ぎ目」で歪みが生じており、「全てを統合すべき」フィナーレも、結局は「軋轢に耐えられず」、何か「問題をはぐらかした印象」は拭えない。
こうして、またしても彼は「完璧な交響曲」を作る事に失敗したのだが、にも関わらず「第10」が「質の高さ」を持っていることも確かで、そのためか、彼は「それでも満足した」のであろう。
そして、「第10」は、実質的には、彼の「本筋での」「最後の交響曲」となり、そして「到達点」となったのである。(「d-s-c-h」は「そのような理解」も可能にするものであろう。)
この後、彼は呆れ返るような「変節」を見せ、二曲の「体制のウケ狙い」としか思えないような「標題音楽」を、こともあろうに「交響曲」と呼びたがる「ご乱心」を見せたあげく、挙げ句の果てに「第12」の時には、まさに「終わった作曲家」と見なされるはめに陥る事になる。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。