2007年09月29日

音楽の「言語性」とは?(128)

ショスタコービチ「交響曲第10番」第3楽章は、晩年の彼が、そこかしこに頻繁に用いることになる彼自身のイニシャルに基づくモノグラム「d-s-c-h」が「交響曲」という晴れ舞台に初めて、かつ最も「大々的に」、「露骨に」用いられている例として知られている。
この音形が半音進行を二つ組み合わせた「彼好みの響き」を持っていることや、「並べ替え」で音階的にも使えるなど、色々と「利便性の高い」ものであることは確かだが、彼がこれを用いる時は、あくまで「絶対音高」は守られ、「その意味」について過剰なまでに確保されるのが常で、「隠された形」で現れる時は、彼がそれについて「意識」しておらず、むしろ、あまりにも頻繁に用いるため「放っておいても出て来てしまう」状態であることによることが多い、とも考えられる。(しかし、この「第10」では「意識されて」おり、曲頭の「基本動機」にも、音高、順列は違うが、確かに含まれている。それにしても「計画的」である割には、第3楽章での「d-s-c-h」の利用の仕方は「かなり異常」であり、露骨に強調され過ぎている。)
このような「操作」では、大バッハやシューマンの例が有名であるが、この類の事に「本気になる」作曲家は稀で、むしろ「遊び」の領域であることが普通であり(シューマンにおいてもそうである)、バッハ(「b-a-c-h」)のように、その時代性や、姓の綴りの全ての文字が美しく音名化出来る(「d-s-c-h」は名前をドイツ語読みした上で「音名化出来るもの」を都合良く拾ったに過ぎない。省略されているのは、少なくとも「a」と「cーh」の繰り返しが見いだされ、彼はおそらく意図的にこれを「b-a-c-h」に似せているのだと思われる。)、という「特殊事情」が無いにも関わらず、「シリアスな作品」の中に、ショスタコービチのように頻繁に「このようなもの」を持ち込もうとした例はちょっと他には見いだし得ない。
この「d-s-c-h」素材の乱用によって、各作品は当然に「音調が接近して来る」訳で、普通、作曲家が余り「このようなこと」を繰り返さないのは、これを避ける為にも当然なのだが、ショスタコービチの例は完全に常軌を逸しており、殆ど「強迫観念」に基づくものとすら感じさせる。
この「d-s-c-h」動機は、素直に取れば「ハ短調」とするのが「最も自然」で、この第3楽章では、後の「弦楽四重奏曲第8番」と同様、その「ハ短調」として解釈しているが、この調の選択は交響曲の主調「ホ短調=ホ長調」からすると=前楽章の「変ロ短調」の続きとしても=異例であり(もっとも、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」のように、ハ短調の曲にホ長調の中間楽章を置く例もある。)、いささか「本末転倒」を生じているが、この措置は、交響曲の「本来の筋」をも歪めている。
開始からいきなり出る第一主題では「c-d-es-h」という形で、交響曲の開始を音高と表情を変えて「なぞった形」で用いられるが、続いてワルツとして現れる第二主題では「d-s-c-h」そのままとして、彼の「癖」である同音反復で入って来る。いずれにせよ「旋律の出来」としては褒められたようなものではなく、かえってそれが「意味ありげな感じ」を誘うのであるが、第2楽章のイカレた「暴走」の後での、音の薄く、曖昧なテンポの中での「はっきりしない感じ」は、トリオ部でのマーラーの「大地の歌」の開始のホルンの咆哮をそのままコピーしたような「e-a-e-d-a」という、単声で信号のように繰り返される動機が現れるに及んで、さらに増幅される。
この動機そのものは明確で、且つフォルテで提示されるにも関わらず、その余りにも「造作の無い」「脈略の無い」唐突さによって聴き手に「意味」を考えさせずには置かない。(そして、これが彼の「愛人」だったかも知れぬ「教え子」のイニシャルのモノグラムと知って、呆れ返ることになる。似たような事を、アルバン・ベルクが、その「叙情組曲」で、「複雑に」「露骨でなく」、しかも音楽的、内容的にも「何も失わない」形で行って見せたが、ショスタコービチが「これを知らぬはず」は無かろう。)
意図的にせよ、「交響曲」の中で、このような「スカスカな音楽」に出くわそうとは夢にも思わぬ聴き手も多かろう。(これを「意味深い」とする優しい聴き手も存在するらしい。)
この楽章を「理解する」ためには、このような、本来的でない「予備知識を役立てる」ほか無いのであって、それは第2楽章のどうだか解らない「スターリン」よりも「はるかに重要」なのだが、果たして「そのようなもの」が「交響曲の一部」として書かれていいものか、疑問が残る。
第1楽章では、彼の「正規な路線」に基づいて「比較的公汎なヴィジョン」が示されたにも関わらず、この10分にも引き延ばされた「イニシャルが併置された音楽」は、ともかくも「集中度」によって「特別なもの」として交響曲を「続ける」ことには成功した第2楽章を経て、その気難しげなポーズもろとも、すっかり位相を「個人的なレヴェル」に「引き下げて」しまい、そのため交響曲全体のバランスを狂わせてしまう。
このためにフィナーレは「問題」ともされる「長過ぎる」「暗い序奏」を必要とし、この交響曲で初めて現れる「まともなアレグロ」の登場を遅らせることになる。
この楽章にもマーラーの「第9」の第2楽章の影響を受けた部分が感じられるが、「お手本」ほどには「大交響曲」の面目を保ちきれないようである。マーラーの夢想的なレントラーは、自意識過剰の空疎なワルツにとって代わり、「大地の歌」への「オマージュ」と思しきものも、実際には全く関係のない作曲者の「思い入れ」と結びつけられている。
おそらく、彼はその「イニシャル」が「大地の歌」を思わせるものだったので「引用のように扱った」だけなのである。(以降、次回。)



ラベル:音楽
posted by alban at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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