2007年09月22日

音楽の「言語性」とは?(127)

ショスタコービチの「交響曲第10番」の第2楽章が、他の三つの楽章に比して「違和感」を感じさせること、とりわけ、長大且つ内的な冒頭楽章に直接続くにも関わらず、その「強過ぎるコントラスト」に対して何の「緩和措置」も取られず、出し抜けに始められる、バレエ音楽か劇音楽の一部のような性格と「ショウ・ピース的」な派手な演奏効果を持つその「荒れ狂う音楽」は、いつもは「無駄な長さ」に傾きがちなこの作曲家が、こともあろうに「別に必要でもない」この個所で発揮した「短さ」(もっとも所用時間の短さはテンポ設定の速さに起因しており、「短さ」自体も相対的なもので、前作「第9」ならば「普通」であって、4分程度の音楽の「実質」も、せいぜい2分程度でまとめることが可能な「情報量」である。かといって「気の利いたエピソード」が挟まれている訳でも無く、これは主として楽章後半部が異常に引き延ばされている結果であり、例によって「無駄」を探す事は極めて容易である。)と共に、その交響曲全体との「バランスの悪さ」「据わりの悪さ」については、発表当初から非難が加えられてきた。
前述通り、作曲家も認めたこの「欠点」を是正する措置は何ら講じられず、作品はそのまま残されたが、「改訂」はともかく、彼が「別の音楽」を書かなかった理由は明らかで、この「いかにも他から持って来たような音楽」(もしかすると「第10」構想前に彼が計画していた「オペラ」の素材などを利用した可能性もあるが)は、しかしあくまで「交響曲」の一部としての「バランス」と「モティーフ操作」を考慮したもので、(ホ短調、四分の三拍子のゆるやかな第1楽章に対する「ロ短調でない」変ロ短調、四分の二拍子の急速な楽章、次にハ短調のミディアム・テンポの四分の三拍子によるスケルツォ、というのは「どうも一貫性が無い」にせよ)楽章の開始から繰り返される低音部の短三度進行と上声のディアトニックな「民謡風な旋律」という構造が、前楽章のそれを「なぞったもの」であることは明白でもあり、このような点では「続きとして」申し分無い、とも思える。
果たして「計算違い」は、その「キャラクター付け」にあり、善かれ悪しかれ話題に登らぬ訳にはいかぬ、例の「ショスタコービチの証言」での、この楽章が「スターリンの肖像」である、という「作曲者の言葉」を納得させてしまいかねないような、「カリカチュア」を思わせるような、一筆書きの「荒っぽさ」や、歯止めの利かぬ前進性、要するに何か「具体的な説明」が無くては解釈が難しいような極端に過ぎる「ぶれ方」によって、「何か別のものをここに嵌め込んだような印象」が交響曲全体の解釈を難しくしているのである。(このもっともらしい「スターリンの肖像」云々については、この曲の成立事情からしても「ありそうなこと」にも思えるが、仮に「それが本当」だとしても、むしろ、この作曲家が後日になって「意味深な発言」を残す事で、「作品の不備」を「実際に手を加える事無く補正」し、「正統化」し、当初から存在した訳でもない「付加価値」を与えようとした、いけ好かない「悪癖」の一例、として「聞き流すのが正解」であろう。)
この「行き過ぎ」の印象は別の理由からも発生している可能性があり、「もっと単純な問題」、即ち、この音楽が具体的に「他の作曲家の作品」をイメージさせる点が少なく無い点、例えばベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第13番」の第2楽章に置かれた同じ変ロ短調のごく短いプレストの音楽との類似性や、ストラヴィンスキーの「春の祭典」(第二曲)との、「丸写し」のような類似(シンコペートされたリズムとアクセント付け、「民謡風な旋律」など)、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」のフィナーレのエコーが「トラウマのごとく」現れる、という具合で(他にはプロコフィエフやチャイコフスキーも想起させられる)、「短い割には忙しい」こと甚だしい。
ことにストラヴィンスキーへの類似は、この楽章が指向したと思われる「暴力性」の描写と思われるものが、「春の祭典」の、いわゆる「原始主義」への連想と「安易にも結び付いた」と感じさせる点で、「このような立派な作品」としては、実に具合がよろしく無い。
特に開始部分の与える印象は決定的で、後の進行がいかに異なる、と言っても、「元ネタ」を知る者には「露骨な劣化コピー」として響くため、致命的である。
各作曲家の「派手な部分」を「てんこ盛り」にしたような音楽は(まさか「そういう意図」ではあるまい)、後半部で弦が駆け回り、金管が吠えまくる場面を延々と続けることで「ヴィルトゥオーゾ・オーケストラ」向きの「ショウ・ピースと化し(まさかカラヤンはこれが理由で「第10」を採り上げたのではあるまい。無論、これを「この上なく見事に」演奏してはいるが。)、逆に、グリンカの「ルスランとリュドミュラ」序曲とか、バーンスタインの「キャンディード」序曲のような派手で明るい「オーケストラ的快感」すれすれのものとなる。
まるで「図書館に暴れ馬が飛び込んで来た」ようなこの楽章は、終わった後の「緩和措置」も勿論取られぬまま、「極めて個人的な内容」のために「私物化」される交響曲の後半部に対しても「断層」を生じたまま、「放置」される。
中間楽章の構成がマーラーの「第9」の逆のような順番になっていることは既に述べたが、彼はマーラーの「ロンド・ブルレスケ」に「何か学ぶ」ことも出来たはずである。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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