2007年09月15日

音楽の「言語性」とは?(126)

ショスタコービチ「交響曲第10番」の第1楽章は、彼の数ある交響曲の冒頭楽章として最も優れたものに属するが、構成や主題の性格等において、「第5」のそれ、その「作り直し」である「第8」のエコーが感じられるがものの、それらに比しても、規模、内容のバランスが最も妥当であり、彼にありがちな「不当に長い」印象も与えない。
「ソナタ楽章」といえども「緊密な造り」というより「興に乗って流れがち」なこともある彼のこの種の音楽の中でも、これは「ベートーヴェン的」に「微細な動機を利用して大規模な構造を組み上げようとした」一例であり、この点では「純音楽的傾向」も認められる。
とは言え、ベートーヴェン風な「構えの大きさ」は無く、むしろ極めて「内向的」なもので、このため、彼がしばしば陥りがちな「劇的効果」への依存、とりわけオーケストレーションによる「演奏効果」と音楽自体の「内的なテンションの高まり」を同義のものとしてとらえる悪癖からは遠ざかっている。(従前と似たような書法ではあるとしても。)
この「第10」については既に多くのことが語られ、「詳細な分析」というのも存在しているらしいので突っ込んだ所までは立ち入らないが、とにかく目立つのは冒頭の「モットー動機」とも呼ぶべき六つの音符(e-fis-g-dis-fis-a)が全楽章に渡って様々に利用されることで、これが、そもそも彼が好んでいる音程とか動きに基づいているとは言え、その徹底ぶりは注目すべきであろう。
この動機自体は「第8」の時のような強い性格は持っていないが、曖昧な感じでありながら、その三拍子の律動(テンポ感としては六拍子ないし十二拍子に近い)と共にオスティナート風の「下地」を作っており、これが楽章全体の基調を為していること、様々な要素が現れるように見えるものの、それらの素材も「モットー動機」から派生したものであること、例の「モノローグ」のような「感情的な処理」が避けられていることなどが、この楽章の「統一感」を強いものにしている。
開始はショスタコービチの全作品の中でも特に見事なもので、最初の数小節は、それこそ「ベートーヴェン風」に論理的でもある。(この冒頭については、チャイコフスキーの「第6」の開始と音の高さ、音形がまるで一致していること、休符を挿んで途切れ途切れに奏される形がリストの「ファウスト交響曲」に酷似していることが指摘されており、「何らかの関連性」の存在があるとされているが、それに賛同する。)どちらかというと「明快な開始」を好む傾向が強い彼としては珍しい書法であるが、これは「第5」「第8」の「劇的な開始」が静まった後の「オスティナートに乗って現われる静かな主題」の延長であり、「全く新しいもの」ではない。
但し、それらと違って「オスティナート」自体が「基本動機」であるため、これは持続力を得ており、繰り返しも含めて、これだけでかなりの時間を要する。後から現われる「クラリネットの主題」は、本来的な意味での「第一主題」ではなく(丁度、ベートーヴェンの「第3」フィナーレの「プロメテウスの主題」のように)「二重構造」の一部なのである。
その「主題全体」としては、音階もしくは分散和音を基調にしているが、不定形に基本動機を巡る低音部と、クラリネットの息の長い「民謡風」は旋律は「不可分」と言うよりは「緩い繋がり」を示しており(クラリネット主題自体、低音部の長い持続を模倣したものだが)、どちらが「主体」かも曖昧で、この「二重構造」のために「第5」や「第8」の、似た感じの主題のようには「感情移入」を誘うような性格のものでは無くなっている。
こうして生成される「客観性」は続く「小展開部」的な経過部でも同様で、動機的分解を連続させて高潮を作る事で持続される。
(「第10」における「二人称」的な語り口はこうして保証されるのであるが、これは以後全曲に渡って維持される。)
第二主題提示前に第一主題が回帰するのは彼が良くやるパターンで、このため形式的規模は増大するのだが、「第10」では冒頭から動機の反復を積み重ねるために、さらに「充分以上」を超えており、これを「提示部の反復」のように感じさせる上、感覚的には「展開部」の始まる位置に第二主題がおかれることになる。(いずれにせよ、冒頭の雰囲気や、第一主題の再現というものは「形式的な区切り」を感じさせるものだが、彼はこの点についてはあまり頓着していないようである。)
このため第二主題では雰囲気を変える必要があり、冒頭からの四分音符による三拍子の律動は消え、今度は八分音符の刻みを主体とする(但し休符を挿んで動機を反復する構造は同じである)、彼好みの同音反復を多量に混ぜ込んだものとなる。これも「モットー動機」にまつわるものであるものの、そのリズムと伴奏が示しているのは「ワルツ調」(それもピアノで弾くような)で、その吃るような奇妙な動きとぶつ切れの進行によって歪められている。
二つの主題は同一の素材を書き分ける形になっているが、音楽はエピソード的な要素を殆ど交えないまま進み、展開部でもこれらを交互に発展させることで対照が築かれ、彼の交響曲でも最も充実した「展開」を見せる。とは言え、これも「第5」「第8」の延長線上のもので、三拍子であるために例の「行進曲」こそ現われないものの(そもそも「第10」には「軍隊的な要素」が、その性質上からか用いられない。)、大まかな進行にはかなり「既視感」がある。
特に展開部の終わりをクライマックスとして再現部の開始と重ね合わせるやり方は同様で、これが「この路線」の「結論」的性格を有しているとは言え、やや「パレットの少なさ」を感じさせる。
但し、ポリフォニックな処理は充実しており、前述通り「モノローグ」による「感情的な補充」を不要にしている。
短縮化された第二主題の再現で「雰囲気を戻す」方法も同じだが、今回も静かに閉じられるコーダは、「第5」のソロ・ヴァイオリンやチェレスタ、「第8」の弦の和音とトランペット、という具合に「意外な音色」で「特化させる」方法が採られ、「第10」ではピッコロに委ねられる。
これはマーラー「大地の歌」の最終章に現れるフルートを彷彿とさせるが、ここでは「寂寥感」というよりは文字通りの「寒々とした空気」を伝える。(「引用」というのではないが、この類似は意識されたもののようにも思われる。)
それは「終止」というよりは「静止」、もしくは途切れるような結びで、冒頭の雰囲気を呼び覚ましながらも、明らかに「局面が推移した」こと、しかし何ら「解決」は訪れないことを仄めかす。
何がしかの「外的な力」に歪められるというより、「決定的な事」が「内的にしか起こりえない感じ」が、こうして確立され、ショスタコービチの「第10」は、その最も重要な一章を閉じる。
この気分は早くも第2楽章で破壊されるように見えるが、有名だが問題の多いその音楽は、おそらくは、この交響曲の「構想以前の音楽」を利用したようにも思えるほど、違和感を感じさせる。(以降、次回。) 
ラベル:音楽
posted by alban at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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