2007年08月11日

音楽の「言語性」とは?(124)

ショスタコービチ「交響曲第9番」の特異な第4楽章は、ベートーヴェン「第9」の同じ第4楽章のパロディであることは良く知られている。
ここまで「避けに避けて来た」はずの「第9交響曲」としての「偉大性」「精神性」とかいうものについて、ここであっさりとベートーヴェンを「想起せざるを得ない」形で「コメントされる」訳だが、それも「歓喜の主題」でなく(それならブラームスがやったことであるが。彼の「第1」の空転しがちな「握り拳」は、そもそも、このフィナーレから作り始めたことに起因している。)その導入を為す「レチタティーヴォ」、一度目は低弦で、二度目はバリトンによる「台詞付き」で歌われるそれの、ほぼ「引用」に近いものが、しかし意味論的には「ひねりの利いた」やり方で行われている。
ショスタコービチは、これを引き延ばし、一つの楽章にまで拡大させているのであるが、それは「第8」で「フィナーレとしての緊張感」をいきなり「台無しにした」楽器であるファゴット・ソロを、しかし今度は「悲劇ぶった姿で」再び用いて、威圧的なトロンボーンのユニゾンと交替させながら進められている。
この手法は何故かビゼーの「アルルの女」第二組曲の「間奏曲」を思い出させるが、この楽章全体としては、ムソルグスキーの「展覧会の絵」に含まれる「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」に、内容的に近いものにも感じられる。(この類似は、もしかすると「意図的」なのかも知れぬ。)
ベートーヴェンを始めとして、「重層的な引用」が行われているようにも見えるが、しかし「実質的」には、これは彼が交響曲の冒頭楽章で良く見せるような管楽器の「モノローグ」に他ならず、前作「第8」の第1楽章に出て来るイングリッシュ・ホルンのソロと性格的にも内容的にも「幾らも違わないもの」が行われているに過ぎない。この楽章自体が次の第5楽章フィナーレへの「序奏」としか考えられぬ造りであることも含め、これは見掛けほどには「新しいもの」では無く、わざわざ「第4楽章」と銘打っているのは「主部」と切り離すことでベートーヴェンのフィナーレとの外見的類似を避けようとしたとも思える。(そうは言っても、何の「予備知識」も無しに聴かされたら、これは「序奏」としか思われないだろうが。同じように、彼は後に書かれる弦楽器のための協奏曲において、通常「カデンツァ」としか思われないものを「楽章」として「番号打ち」することで、彼の仲良しのソリストを「祭り上げ」、新鮮味を与えようとしているが、それを「新鮮」と感じるためには「番号打ち」を知っていることが必要で、例によって「意図」と「実際」が喰い違う事態を生じさせている。彼はこうした「操作」に熱心だが、そこに書かれる音楽は殆ど「いつも一緒」で、要するに「置かれる場所が違う」だけなのである。)
トロンボーンのユニゾンは音階的に上昇する線によって冒頭楽章や次のフィナーレ主題との共通性を確保しているが、続くファゴットのソロと共に著しく「言語的」であって、オペラティックな「場面」を作り出し、交響曲のこれまでの「ずれて来る位相」を、さらに先に押し進める。
この「悲劇性」はファゴット・ソロが低音域に下がってゆき、「静止」した所で終わりを告げ、そのままソロでフィナーレ主題を奏して、今度は「喜劇性」に転じる。
この「シリアスさ」と「道化」が入れ替わる部分が、この「第9」の「最も印象的な瞬間」であり、同時に第1楽章の「位相」に音楽が少し引き戻される、「全曲のクライマックス」を為している。
長いスパンで音階を上がったり下がったりする主題は奇妙にユーモラスだが、ショスタコービチでは出会う事が稀な「選び抜かれた主題」であり、またファゴット以外の選択が考えられぬ程「はまって」いる。(この主題のために彼は第4楽章をわざわざ準備したのであろう。)
しかしこの主題は「第8」第3楽章の中間部に現れるトランペットの旋律、前述した「第9」の第3楽章の同じトランペットに与えられた旋律と「同根」のもので、外見的にも性格的にも極めて近く、
これまで「エピソード」として扱われて来たものが、ここでようやく「主役」として躍り出ることになる訳だが、この道化た性格はすぐにオーボエで始まる次の第二主題で強められる。
第一主題部の再帰がこれに続き、ロンド形式が確立されるが、今度は「何かの小唄をもじった」ような、ひねくれた半音階で歪められた第三主題(ロシア風にも、ユダヤ風にも感じられる。)が現われ、小太鼓の合いの手や、第一主題、第二主題に含まれる音階下降に基づくミュージカル風のリフレインと共に、いよいよ「くだけた雰囲気」を敷衍するように思われるが、不穏な感じの第一主題の冒頭部と交互に奏されて組み合わされ、ロンド・ソナタ的な扱いが為される。
この「展開部」は以外に長く、第一主題の素材から第二主題に移行して長いクレッシェンドを作り、「最後のクライマックス」としては「本来似つかわしくないはず」の第一主題を、金管群がいよいよ「凱歌風」に「鳴り物入り」で吹きまくり、小太鼓が連打され、トランペットが第三主題の、最初の提示で目立たなかった対位音形を派手に吹き鳴らし、堂々と「軍隊調」の「行進」を進める。(このグロテスクな「行進」は、この曲をどうしても「勝利の」「大交響曲」として祭り上げたい態度=旧ソ連の演奏に良くある=によって、身の程以上に「強調」され、かえって「作曲者の意図に沿う」という、皮肉な結果をもたらすことが多かった。)
交響曲は当該部分で明らかに内容的に「終わっている」のだが、ショスタコービチは「念を押す」ことをここでは忘れず、既出の材料を散りばめながら、ミュージカルやサーカスのようにストレッタによる「退場の音楽」をコーダとして鳴らし、ショウ・ピース的な派手な「打ち上げ」を付け加える。
前楽章で導入された「劇的な要素」が、フィナーレを舞台音楽のように仕立て上げている訳だが(但し、この「結び方」が、ベートーヴェンの「第9」のコーダの最終部分のイメージを反映していることも確かであろう。)、このように様式的、内容的に一貫しない、「ばらばら」とも思えるようなものが短時間に詰め込まれている形のショスタコービチの「第9」は、「ディヴェルティメント」として、彼のスタイルの「ダイジェスト」としての「まとまり」は持っている、とも言えよう。
それは「掛け値無しの傑作」とは言えないにせよ、まあいかにも「彼らしい作品」であり、いつもの実体の良く解らない「深刻ぶり」よりは、余程「採るべきもの」なのであろう。(以降、次回。)
タグ:音楽
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2007年08月04日

音楽の「言語性」とは?(123)

ショスタコービチの交響曲第9番の第2楽章は、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどの有名な「先例」があるにも関わらず、「通常の配置」に従って緩徐楽章を置いている。
これは第2楽章にスケルツォを置くことの方が多い彼としては「むしろ例外的」な措置であり、パロディカルであるとは言え、妙に「古典ぶった」第1楽章の「続き」としては「この方が適当」であるにせよ、これも「第9であること」を意識した結果と見る事も出来よう。
前述通り、冒頭楽章の規模が後続楽章の長さを制限しており、この第2楽章も彼の緩徐楽章としては極めて短いものの一つであるが、果たして「その分簡潔に」「無駄無く」書けているかと必ずしもそうでもなく、「短さ」は美点であるにせよ、実態は「いつものショスタコービチ」に戻ってしまう。
第一主題の分散和音+四度音程の構造は既に述べた通り、冒頭楽章から受け継がれたものであるが、半音階進行が節目ごとに現れるために、かなり違った印象を与え、単旋律に近い進行、同じ音色、似たような動きが続き、活発な第1楽章と対照的に「停滞感」が顕著であって、晩年に向かって登場の機会が多くなる独特の「薄い音楽」の端緒の一つとなっている。
第一主題部に感じられる「夜の音楽」の性格は、続く第二主題の半音階的に緩やかに上下する薄気味悪いスロー・ワルツによって強められるが(この「夜の感じ」は、彼が特に好んだ曲と伝えられるマーラーの「第7」の中間三楽章との共通性が感じられる。特に、マーラーの「第1夜曲」第2楽章の開始部、終結部や、ワルツのパロディである第3楽章スケルツォの曲想と類似している。)、第一主題とは対照的に和声的に滑るようなこの主題は、低音部では第一主題と同様の動きを繰り返しており、外見ほどには相違しておらず、むしろ「継続」の感じが強い。
第2楽章の主たる「材料」はこの二つのみであり、第二主題がヒステリックに盛り上がった後、彼の作品で頻出する「お決まりのフレーズ」の経過句が現れる他は(これ自体も後半部で反復される)、二部形式を乱すものは現れない。(第一主題部をもう少し簡潔にすれば「短い中間部」位は置けたであろうが。)
後半部は相応の変化を受けるが、高音域に移る第二主題部が幾分「安息の感じ」を醸し出し、楽章を落ち着かせる。この音楽は極めて印象的ではあるが、若いプロコフィエフが彼の「第1交響曲」で、どんな緩徐楽章を書いたか知っている者にとっては、何か「期待を裏切られた」気分にさせられる。
(第1楽章が、どうしてもプロコフィエフのこの曲を想起させるのは否めない所である。)
この「脱線」は、「モティーフ操作」の効果など亡き者にしてしまい、二楽章目にして早々に確立された「様式上の不一致」は、ここで聴き手に疑問を抱かせるものとなるが、これは後続楽章の責任というよりは、明らかに第1楽章における「意識し過ぎ」「作り過ぎ」「やり過ぎ」に起因していると思われる。
このため第3楽章は「メヌエット」(無論「ガヴォット」であるはずもない。)ともならず、彼本来の「スケルツォ」に「逆戻り」するはめになる。
「軌道修正」のためか、彼はここで「いつもの」皮肉っぽいスタイルよりは余程「軽い」、「メンデルスゾーン風な」ものを試そうとしたと思われる。
彼としては珍しい八分の六拍子を採るが、無窮動風のクラリネットに始まる主題が冒頭楽章の「分散和音の開始」を踏襲し、続く弦の弱奏が前楽章の第二主題と共通の「半音階の動き」を引き継いでいるなどの「配慮」はあるにせよ、実際には、誰でも気付く、中間部のトランペットによる「軍隊風」主題の酷似に見られるように、あくまで「第8」の第3楽章の延長線上にあるものに留まっている。(このスケルツォを何故か「高く評価する」向きもあるようだが、それはおそらく、珍しくも「メンデルスゾーン風」な所が「良く見える」のであろう。)
主部の再現が脱力していくように「解体する」新機軸はあるにせよ、「第8」同様の次の楽章へのアタッカの形成も前作のような、非常に「劇的なクライマックス」を呼び込む訳にも行かず、その「意気消沈」するような移行は、楽章の当初のコンセプトと合致していないだけでなく、よもやと思わせる、ここまで避けていた筈のベートーヴェンの「第9」への「直接的な言及」がトロンボーンの強奏の後で現われ、今度は「オペラティックな局面」が召喚される、という、しばしば退屈で無い事も無い、彼の交響曲でも一際立った「目まぐるしさ」である。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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